愛は見えないかもしれないけれど、感じることはできる

  14, 2018 07:00
待ち合わせで入った、ファストフード店。
そこで目にした光景に、私は釘付けになってしまった。

二人の幼児が、それぞれ父と母らしき大人と一緒にテーブルについていた。


私が見たとき、幼児二人は、目と目で互いの距離を推し量っている。
その距離とは社会性ということだろう。

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本当に驚いた。
このような幼女がもう、相手を悪く言えば『値踏み』しているのだ。
そして、互いが自分にとって合うか合わないか、そこのところを推し量っている。

それも、じっと目を見るのではなく、相手が見ようとする寸前で、ちらっと逸らす。
うーん、私より、世馴れているじゃないか、この二人は。


パステルピンクの洋服に身を包んだ幼女は、父親らしき男性と一緒に来ている。
甘えるその仕草の一つ一つを、父は携帯電話のカメラに収めている。

もう一人の幼女は、母親らしき女性と一緒だ。
しかし、母らしい女性はスマホに夢中で、我が子に微笑むでもなし、話しかけるでもない。
ジュースを口に運ぶ子どもと、スマホに忙しなく手を運ぶ女性。



ついに、幼女二人が、値踏みの末、互いに相手を視野に捉えた。
その瞬間を私は観ていた。

方や出来うる限りの世話を焼かれ、方や同じテーブルに着きながらも、無関心状態に置かれている。
この二人の幼女の違いを考えた。


子と親は、赤ん坊のころの臍の緒がきれても、子ども時代は、目に見えない紐で親と繋がっている。

しかし、その紐はゴム紐のようにしなやかで充分に伸びる。
親はゴム紐を持つ手に力を込めたり緩めたりしながら、子を見守る。


ゴム紐は強く引っ張ると相手に痛みを与えてしまう。
その力加減こそが、愛情だと思う。


子どもは、親と繋がっている安心感から、どんどんと遠くへと冒険に出る。
どんなに遠くへ行こうとも、振り向けばそこには繋がっている親がいて、いつでも自分を見ていてくれる。

そうしながら、子どものゴム紐は引っ張ってもパチンと切れることなく、しなやかで丈夫なものになっていく。
いつか、自分でそっと親との繋がりを切るまでは。

父に思うぞんぶん、世話をやかれている幼女。
そして、スマホに夢中で我が子を見ようともしない母と幼女。


出来得るなら、スマホ持つ手で隠れているけれど、その母の手にも、ゴム紐が握られていますように。

と願わざるを得なかった。





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